「極楽山 西方寺」が創立されるまでの経緯をご紹介いたします。定義物語は、展示室「玉手箱」でもご覧いただくことができます。
定義如来西方寺内の展示室・玉手箱では、浄土くんと定義(じょうぎ)さんによる「定義如来西方寺の由来」を紹介するムービーをご覧いただけます。Yoububeより配信しておりますので御覧ください。
中国大唐の時代に、法照禅師と申される高僧がおられ、五台山(現 山西省)竹林寺にて文殊菩薩様より南無阿弥陀仏の名号を直におうけになり阿弥陀如来画像のご宝軸を賜りました。
以来、禅師は、育王山径山寺※に隠匿するまで、そのみ教えを熱心に広め、ご霊像は、長く同寺の宝物として、広く人々の信仰をあつめていました。
※育王山径山寺は現在の中国浙江省
平重盛公が内大臣を務める頃は戦が絶えませんでした。
そこで公は、中国の育王山径山寺に、黄金を寄進し平和祈願をしました。
時の住僧仏照徳光禅師は平重盛公のこの行いに対し、阿弥陀如来の掛け軸を送りました。
公は、大変喜び日夜祈りました。
治承2年秋、平重盛公は、重い病にかかり、自ら死期を悟ります。
そこで、重臣であった肥後守平貞能公に御宝軸を授け、長く後世に伝え、天皇はじめ平氏一族、世の人々の後世と、自らの死後の菩提を弔うように伝えました。
平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、重盛公の遺言にしたがい、貞能公は宝軸をまもり、ひそかにこの地に隠れました。
貞能公はなおも世をはばかり、名を「定義」と改めました。
今、この地を「定義」(じょうぎ)と称し、如来様を「定義如来」と申し上げるのもここに起縁いたします。
貞能公は、建久9年(1198年)7月7日、御年60歳で亡くなりました。
そこで部下達は公の遺言通りに墓の上に小さなお堂を建て如来様の掛け軸を安置しました。
宝永3年(1706年)1月7日、早坂源兵衛は自ら出家し「観蓮社良念」と称し、「極楽山 西方寺」を創立されました。